CLIP STUDIOと液晶タブレット買ったけど使いこなせるのかこれ

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Yosihino_Kimiharu 略してYOKIです。デジタルで絵を描いてみようと思います。

財布を落として気付いた「バチがあたる」という概念が持つ社会契約説的な一面ともうひとつ

先日もブログで記事にしましたが、結構な金額が入った財布を落としました。

正確に数えてなかったので分かりませんけどウン十万円は確かに入っていたと思います。

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二つの側面に気付いた「バチがあたる」ということ

僕にとっては高額なお金が入った財布を落として気持ちの整理を自分なりにつけようとしたときに道徳教育などでよく使われている「バチがあたる」という概念を利用してなんとか心の平安を取り戻そうとしている自分がいることに気が付きました。

そしてこの概念にはふたつの側面があるということに気が付いたのです。

ひとつは社会契約説的な一面。

そしてもうひとつはネガティブなことを受け入れるための道具としての一面です。

 

 

財布の大きさ、器の大きさ

財布を落として警察に遺失物の届けなどを淡々とやりました。

自分的にはなんだか落ち着いてるように思えたので

「気持ち的には平気なのかな?たいして精神的ダメージ受けてないのかな?」

なんて思いましたけど、落とした翌日くらいから財布のことがたまに頭をよぎって酷く落ち込むことがことあるごとにありました。

 

う~ん、自分の器もまだまだ小さいのだなと再認識させられましたね。

 

例えば毎月のお小遣いが300円の小学生が500円を落としたら「この世の終わりだ」くらいな勢いで落ち込むと思いますけど大人ならそれほど落ち込まないと思います。

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失った金額の大きさと精神的なダメージはその人の持つ「器の大きさ」で反比例すると思うんですよね。

なのでまだまだ自分は器の小さなケチな人間だと。

もっと修業が必要だと思いました。

 

二種類の失敗

あと、「財布を落とす」っていうことは明らかに失敗の部類に入ると思うんですけど、失敗には「取り返しのつかない失敗」と「取り返せる失敗」があると思うんです。

修復不能なほど他の誰かを傷つけたり、自分の健康を損なったり、修理不可能なのもを壊したりっていうのは「取り返しのつかない失敗」です。

対して「財布を落としてお金を失う」失敗についてですが、お金はまた稼げば戻ってきますのでいくらでも「取り返せる失敗」なんだと思います。

なので「取り返せる、取り返せる。大丈夫大丈夫」と、自分に言い聞かせてみるんですがそれでもひどく気分が落ち込んで混乱というか心の動揺が収まりません。

そしてこのネガティブなことを受け入れるために自分が「バチがあたる」という概念を利用しようとしていることに気付きました。

 

「バチがあたる」社会契約説的な一面 

まず「バチがあたる」という概念には社会契約説的な一面があるのだと個人的には考えます。

社会契約説とは何か?とてもくだいてざっくりざっくり簡単に説明しますと

お前のことは殺さないと約束するから、俺のことも殺さないと約束してくれ

という現在のこの世界の道徳なんかのもとになっている考え方です。

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ホップスだかロックスだか忘れましたけど、そんな人が言ってたように思います。

(間違っていたらごめんなさい)

厳密に言うと「バチがあたる」という概念と社会契約説はイコールではなく、ニアリーイコール(おおよそ等しい)なので「社会契約説的な」と最後に「的な」とつけています。

社会契約説では人間同士で約束(暗黙の了解)しますが、「バチがあたる」という概念では「天」(人知を超えた高次元的なもの。神様仏様)との約束です。

正しい行いをしますから、バチをあてないでください

この暗黙の了解のようなものが背景にあると思います。

これが僕が考える「バチがあたる」という概念が持つ社会契約説的な一面です。

「このバチあたりが!」

これは道徳観念に背いた行為を責めているんですね。

「天網恢恢疎にして漏らさず」(てんもうかいかいそにしてもらさず・天の網はあらいけど悪人は決して漏らさないよ的な意味)なんて言葉もありますし、子供のころから「悪いことをしたらバチがあたるよ」と言われて育ってこういう概念が入っていると、お天道様から見張られてますから悪いことができないんですよね。

村社会がベースにある日本で人間同士が監視しあうのではなく「天」というか「神様仏様」に見張ってもらうという画期的な概念だと思います。

 

ネガティブなことを受け入れる道具としての概念

そしてこの概念が持つもうひとつの側面なんですが、財布を落として思ったのがこの「バチがあたる」という概念はネガティブなことを受け入れるために利用している。もしくは利用することができると思ったのです。

僕にとってウン十万円と大金が入った財布を落としてことはとてもネガティブなことで受け入れがたいことでした。

この受け入れがたいことを受け入れるためにはなんらかの理由が必要だったのです。

冷静に考えてみれば財布を落とした理由としては「僕の不注意」ただこれに尽きると思います。

でもウン十万円ものお金が入った財布を落とすことと不注意という理由がどうしても釣り合わないのです。

バランスがというか心の中での折り合いが付きません。

そこで引っ張り出してきたのが「バチがあたる」という概念です。

 

どうして財布を落としたのか?

 それは日ごろの僕の行いが悪いせいだと。そのせいでバチがあたったんだと強引に理由付けをしようとしていたのです。

 しかし僕は日ごろから別に悪い行いをしているわけではないし、人に恨まれるようなこともしていません。

なので半ば強引にバチがあたる理由をさがしてきてバチがあたる理由と結び付けようとします。

たとえば・・・

先日立ち寄った神社で二礼二拍手一礼しないで適当に手を合わせたから。

とか、日ごろの感謝の気持ちが足りないから。

そんな財布を落としたことと全く関係ないことをバチがあたる理由と結び付けてネガティブなことを受け入れようとしていたのです。

そうでもしないと気持ちの整理がつかないことに気が付きました。

 

あと、個人的な考えとしてはもし神様仏様のような高次元の存在がいたとしてもその存在が僕にバチをあてることは無いと思います。

よく「神のお怒りを買って・・・」なんて言葉を聞きますが「怒り」という感情自体が実に人間的なもので高次元の存在たらしむものにとってはそれを当てはめること自体が失礼にあたることなのだと僕は考えます。

 

「理不尽なことを受け入れるために高次元のものがもたらした災い」それがバチがあたるということなのです。

それに利用されている神々はなんと寛容なのでしょうと畏敬の念を抱かずにはおれません。

 

後日談

この記事を数日かけてまとめていると警察から財布を拾った方が届け出てくれたとの連絡を受けました。

 

実際は映画を見に行ったときに映画館の館内で落としたらしく、劇場のスタッフの方が拾って届け出てくれたそうです。

僕としてはぜひとも一割くらいお礼をしたかったのですが企業として受け取るわけにはいかないと丁重にお断りされましたのでお礼だけ言って帰ってきました。(法律では2割くらいまで請求できるみたいです。あくまで任意ですけど)

そして実際に財布の中にはいくら入っていたのかというと・・・

財布を警察で受け取る際に目の前で一枚一枚数えられるんですけど51万円と何千円と小銭少々入っていました。

 

これからは財布に入れとくお金は2万円くらいにしようと思います。

なんにせよ財布が戻ってきてよかったです。

ご心配いただいたかたもどうもありがとうございました。

 

うーん、優しい世界!

 

 

読んでくださってありがとうございました。