恐れが恐れで無くなるとき。
道端で遭遇する野良犬が怖かった
子供の頃の話ですが、ある時期まで野良犬が怖かったんです。
AIが~シンギュラリティが~なんて言ってる近未来の昨今では野良犬なんてめったに目にすることはありませんけど、僕が子供のころ(昭和時代)は外で遊んでいるとたまに遭遇していました。
狂犬病の危険性から、大人たちは「野良犬には気をつけるんだよ、噛まれた狂犬病になるよ」なんて脅かすもんですから余計に怖かった覚えがあります。
小学1年生くらいまでだったと思いますけど道端で野良犬と遭遇するともしかしたら噛まれるんじゃないかと怖くて怯えていたものでした。
でもある日を境に野良犬は僕の中では怖くなくなりました。
その転機となったのは僕が小学1年生のある日のこと、今は亡き父との思い出の日までさかのぼります。
その日僕と父が近所を散歩していると僕たちの前方50メートルくらいのところに首輪も何もしていない明らかに野良犬と分かる真っ黒な中型犬が姿を現したのです。
僕はとっさに父の後ろに隠れます。
「なんだよ、あんなのが怖いのか」
「えー・・・だって噛むもん・・・」
僕がそう言うと父は野良犬に遭遇した時の対処法を僕に教えてくれました。
「いいか、石を投げればあいつらは逃げていく」と。
父が道端の小さな石を拾って野良犬に向かって投げると(石は命中せず)、おどろいた野良犬はさっときびすを返して僕たちから距離を取りました。
「おー」と感心する一方で、完全にその不安が払しょくされなかった僕は
「でも、石が犬に当たらなかったら?」
「近くに石がなかったらどうするの?」と聞くと、
父は
「石は当てないほうがいい。拾って投げる真似をするだけでもいい」
「石を投げる動作を見せるだけでも犬はびっくりして逃げていく」
と教えてくれました。
実際に、動作としてかがんで地面に手を伸ばして石を拾って野良犬向かって投げる真似をするだけで野良犬は逃げていったのです。
このことを覚えてから僕は野良犬に対する恐怖心が無くなりました。
どういうことか自分なりに分析しますと「恐れ」と言うものは不明確なものから来る混乱によるものだと思います。
父に対処法を教えてもらうまで僕にとって野良犬は未知数なブラックボックスで、ただ闇雲に危険なものであるとの認識で、それに対峙したときは混乱していました。
しかし、その対処法を知れば混乱は無くなります。
対処法が分からないから混乱する。 混乱するから見えなくなる。
混乱の先は暗闇です。
混乱の中心に居る時、暗闇の中に居る時、その暗闇は一見果てしなく続いているようにも思えます。
まるで底の見えない泥沼にでもはまり込んだように。
足さえついてしまえば(その全貌が分かれば)底は案外浅いことがよく分かると思います。
全貌さえ分かってしまえばなんてことはないのですが、その中心にいるときはその混乱の中で完全に恐怖に支配されてしまっているのです。
父のおかげで野良犬にもニガテなものがあると分かり(底が見えた)、石を投げる真似をすることでそれを遠ざけることができ、恐れの中心から出ることができたのだと思います。
雷も怖くはなくなった。
雷についても似たような体験をしました。
子供の頃は雷雨の中、あの稲光と轟音にただただ怯えていただけでした。
しかしその転機が訪れたのは小学生の高学年のあるとき、本を読んで光の速さと音の速さの違いから雷の発生源から自分がいる場所の距離を大まかに測る方法を覚えたときでした。
どういうことかと言いますと、稲光がしたのを見るとすかさず頭の中で数を数えます。
1、2、3、… 落雷音が聞こえるとカウントを止めます。
この頭の中でカウントした数が多ければ多いほど光速と音速との違いから雷の発生源と自分のいる場所との距離は遠くなります。
しかし稲光と落雷音がほぼ同時もしくは同時なら注意が必要です。
1度だけ山林のふもとでアルバイトをしていた時、雷雨の中で稲光と落雷音が同時に発生したのを確認しました。
その時の落雷音は遠くで聞いていた時よりも音量はもちろん大きいのですが何か乾いた感じだった印象が今も強く残っています。
「あ、これは近くに落ちた。雷雲は真上にいる」と思い、すぐさま屋根のある場所に避難したことを覚えています。
とはいえカウントの数が多ければ(稲光と落雷音の発生タイミングが離れていれば)そんなに怯える必要はないですし、必要以上に警戒する必要もないと思います。
闇雲に怯える必要もなくなりますのでパニックにならずに落ち着いて行動することができると思います。
雷雲に関しては、もしかしたらとても広範囲で発生している場合もありますので、完全に無警戒というかのんきにはしていられないと思いますけど。
仕事に関しても同じことが言える
仕事に関しても同じことが言えると思います。
新入社員として新たな部署なりチームに配属されたときはすべてが未知のもの、それこそブラックボックスだと思います。
初めのころは仕事で使う専門用語、その業界ならではの隠語、独自のルールなどが分からず大いに混乱すると思います。
でも、次第に知識としてそれらの用語や業界のルールを身につけ、先輩たちから仕事に関する様々な知恵を拝することで仕事の概要、その全貌がつかめるころには既に恐れも混乱もなくなっていると思います。
その転機は緩やかに訪れ、気づいたときには既に混乱の中心からは出ているものです。まるで早春に芽吹いた新緑がゆっくりとその緑をたくわえ、初夏に鮮やかな緑で森を萌やすように。
もし、今自分が仕事や何かに対して恐れを抱いているのならそれはもしかして「混乱の中心に居るのかもしれない」と冷静に考えてみるのもいいのかもしれません。
最後に
歳をとって経験を重ねていくと、このように様々な事柄に対しての対処法を覚えていきます。
これが「知恵」というものなのでしょうか。
僕の父はもうこの世にはいませんが、僕に様々な知恵を授けてくれた父に改めて感謝したいと思います。
他にはえ~っと・・・今ぱっと思い出せませんがたぶん他にもあると思います。きっと・・・
もし、父に野良犬の対処法を教えてもらっていなかったら僕は大人になった今でも犬が怖いままだったのかもしれません。
その知恵が僕の胸の中で息づいていると思うとありがたいやら誇らしいやらといった気持ちにもなります。
ちなみに僕は過去、家で飼っていた中型犬から思いっきり噛まれて足に穴が開いたことがありますが、それでも不思議と犬が怖くなることはなかったですね。
(そのときは僕が犬をからかって遊んでたからきっと犬が怒ったんだと思います→自業自得)
経験を積み、知恵を積み重ねることによって闇雲に怯える機会は減りました。
しかしそれは逆に「恐怖を味わう機会」が減っていくということでもあると思います。
大人になるにつれ、もう子供の頃のような「みずみずしい恐れ」を二度と味わうことができないのかと思うと少し寂しい気もします。
もう野良犬も雷も予防接種の注射もジェットコースターも幽霊も怖くなくなりましたもんね。
あ、でも女性だけは怖い・・・特にきれいな女性はこわいこわいまんじゅうこわい・・・
・・・
ご覧いただいてありがとうございました。
割と好評な(当社比)父の他のエピソードはこちら↓
yoshino-kimiharu.hatenablog.com