【何のために生まれ】総合病院で機械でしゃべる人(電動人工声帯)を見た話。【何のために生きるのか】
「自分はなんのために生きているのだろうか?」
「何のために生まれてきたのだろうか?」
誰しもこのような悩み・疑問を一度や二度くらいは持たれたことはあると思います。
他の方の書かれたブログなどを見ていると、時折こういったお悩みを吐露されている記事を見かけます。
僕はこのブログでは人様に対して「あーすべきだ、こーすべきだ」という指図をするようなことはなるべく書かないように気をつけていますが、もしこのような問いを問われたらどう答えるだろうと考えたとき、おそらくこう答えるんじゃないかな。ということを今回書いてみたいと思います。
・・・と、答えを書く前に僕が先日実際に体験したことを書かせてください。
総合病院のロビーにて
先日、近所の大きな総合病院の外科窓口の前のロビーで待っていた時のことです。
こういった大きな総合病院では「待つのが仕事」のようなものですので、僕は椅子に座ってうつむいて自宅からもってきたIpadを見て時間をつぶしていました。
するとどこからか、まるでSF映画のロボットかサイボーグがしゃべるような機械的な音声が聞こえて来たのです。
ぎょっとして声がした方向を見ると60代くらいの男性が首元に電気シェーバーのような機械をあてていて、そこから音声が出ているようでした。
その男性は外科窓口近辺で仕事をしている看護師さんたちに親し気に話しかけます。
「オハヨウ」(機械音声)
看護師さんたちはその男性と顔見知りらしく
「わあー元気になりましたねー」
と、男性との再会を喜んでいるようでした。
看護師さんとその男性は楽しそうに近況を話し合っています。
数メートル先のその会話が聞くともなしに聞こえていました。
僕はその様子を見ながら心の中でこうつぶやいていました。
「ありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございます・・・」
何度も繰り返しこの言葉を繰り返していました。
そして少し泣いていました。
この男性はおそらく癌か何かで声帯を切除されて声が出なくなったのでしょう。
そして病状から回復して声は出なくなったものの、元気な姿を入院時にお世話になっていた看護師さんたちに見せにきたことはその様子を見てすぐに想像できました。
ひと昔の僕ならばそういう境遇の方を見て
「大変そうだな」
とか
「かわいそうだな」
なんて思っていました。
今は物事のとらえ方が昔と違っているのでそういう境遇の方を見ると
「ありがたいな」
と思うようになりました。
ちょっとワケが分からないかもしれませんが僕の今の考え方、物事のとらえ方としては
「そういう境遇の方は自分の命を使ってそういう表現をなさっている。人生を見せてくださっている」
と考えます。
全ての存在(存在しないと思われているものも含め)が表現の源泉であり、お互いに影響しあっていると僕は考えます。
そしてその表現を受け取る人数も違いがあるように見えますがたいした問題ではありません。
映画スターやミュージシャンのように何万人、何億人という人々に向かって表現する人もいれば、小さなコミュニティで一生終えたので数人程度の人に向かっての表現で一生を終える方もいらっしゃると思います。
しかし、観客の人数は関係ありません。
何万人の前で踊ろうが、たった一人の前で踊ろうが表現は表現であることに変わりありません。
たった一人しか観客がいなかったからといって「表現しなかった」ということにはなりません。価値が無いということはありません。
逆に「あなたのためだけに踊る」なんて言われれば受け取る方も特別な気持ちになるでしょう。
映画スターでもなくミュージシャン、有名ダンサーでもない自分の表現はともすれば「脇役」のように見えるかもしれません。
なんでもないつまらないものに見えるかもしれません。
でもすべての表現が完璧であり、この世界を構成する欠かせないピースのひとつ、colorの「一色」なのです。(この点はつらい時期にいる方にとっては共感しにくいところだとも思います)
誰のどんな表現も自然界が作り出した雪の結晶のように完璧で美しいのです。
寒空に舞う雪の結晶たちが「となりの結晶の方が私の結晶よりきれいだ」なんて思うことはないのです。
他者との表現と比べて自らの評価を貶めたり自分を卑下する必要は砂粒ほどもないのです。
話を電動人工声帯の男性にもどします。
その男性が電動人工声帯で看護師さんとお話するのを見たときに、僕はその男性の(おそらくは)おそろしく過酷であった人生に、すさまじく熾烈であったそのストーリーに一瞬で触れることができたありがたさで涙が出てくるのだと思います。
その男性に限らず、誰しもがひとり残さず例外なく自分の人生の「表現者」であり「体現者」であり、その表現によって人々に影響を与える「影響者」だと思うのです。
感性のレベルが高い人はその表現を受け取るレベルも高いと思います。
道端に咲いてる名も知らぬ花、小さな子供の手、朝露と共に芳る若草の匂い、どこからか聞こえてくる楽し気な笑い声、木漏れ日揺らし頬なでるあたたかい風、すれ違う老婆の顔に刻まれた細く深いしわ、夕暮れ長くのびる親子連れの影。
なんでもない、とるに足らないようなことでもその一瞬一瞬が輝いて見え、心揺さぶります。
「歳をとると涙もろくなる」というのはこの「感性のレベル」が上がっているためなのかもしれません。
ここで最初の問いに戻ります。
「自分はなんのために生きているのだろうか?」
「何のために生まれてきたのだろうか?」
僕の答えはこうです。
「表現するため」
「表現を受け取るため」
これが人生での答えのすべてではありませんが、答えのひとつであると僕は考えています。
お悩みを吐露されていた方たちにこの答えが届くかどうかは分かりません。
納得のいく答えではないかもしれません。
でもこれは僕がこの世界に投げた小さな小箱です。
だれが見つけても見つけなくても、開いても開かなくてもいいのだと思います。
そのあとの病院での出来事
でもそのあと予約していた眼科での問診で先生から
「少し目が赤いけど大丈夫ですか?」(ちょっと泣いていたせい)
と聞かれて、
「あっ・・・、いや~花粉ですかね~(すっとぼけ)」
とちょっと返答をごまかしたのでした・・・
ご覧いただいてありがとうございました。