みんな「平成最後の夏」という得体のしれないプレッシャーに焼かれている
「平成最後の夏だから忘れられない思い出をつくろう」
とか
「平成最後の夏だから記念になにかしよう」
とか
最近こういう声をちらほら耳にします。
僕はそんな声のなかに何かしらの焦燥感が含まれているような気がしてなりません。
「早く、早く何かしないと平成最後の夏が終わってしまう」
そんな思いがその言葉の裏にちらほら見え隠れしている気がするのです。
「平成最後の」という強力なクロージングワードによって他者の行動を促すようにしている力学がほんのり見えるのです。(僕だけかな?考え過ぎなのかも)
なんとなく気持ちは分かります。
「〇〇最後の夏」ってなんか思い出作りたくなりますよね。
「高校最後の夏」
とか
「十代最後の夏」
なんて特に甘酸っぱい思い出を作りたくなる衝動に駆られるものです。
夏祭り
花火大会
浴衣姿でカランコロンと歩く音
どこまでも冷たい青の空
雄々しく伸びる入道雲
ひりひりと耳に響く蝉の声
これらの情景が瞬く間にフラッシュバックしていきます。
これらは特にティーンが対象なのですが、逆に
「勤続45年最後の夏」
とかなると
工場を前にたたずむ年老いた男性
年下の口うるさい上司
唯一の理解者パートの桜井さん
やり残した仕事
熟達した老練の技術
このような光景が思い浮かびますね。
ちょっと話がそれましたけど「平成最後の夏」はかなり広範囲の年齢の方々がその気になっているのではないでしょうか。
例にもれずいいおっさんの僕ですら「何かすべきなんじゃないだろうか?」と不覚にも思ってしまいましたもの。
とまあ思ってしまったのもほんの一瞬ですぐに正気に戻って別にいつもの夏と変わりないから特にはいいやと思いましたけど。
とかく日本人の持つ性質として「最後」に対する思い入れはなみなみならぬものがあるんじゃないですかね。
有終の美を飾るとか終わりよければすべてよしとか最後にどでかい花火をあげるとか。
「最後だからいっちょなんかやったろうじゃない!」なんて気持ちになりがちだと思います。
でもこの「最後」なんですが、特に「平成最後」に限らずいつも我々のそばにいると思うんですよね。
事故などで急逝する方にとっては亡くなる前日がまさに「人生で最後の日」になるわけじゃないですか。
本人にしてみたら思ってもみないことでしょうけど。
我々全員がもしかしたら明日にでも、いえ、まさに次の瞬間にでも突然人生の幕を下ろす可能性を内包しているのだと思います。
本来であれば今まさにこの瞬間こそが「人生最後の瞬間なのかもしれない」というプレッシャーに焼かれ続けていなければならないのだと思うのですが、人間はそこのところ上手くできていて「忘却」という特性により、そういう苦しくなる要因は割と簡単に記憶のかなたに押しやることができるという性質を持っています。
たしかにそんなプレッシャーに焼かれ続けるのは正直しんどいですしヘトヘトになりそうです。
ですので別に「平成最後の夏」なんて特に気にするほどのプレッシャーでもないと思うんですが、人によってはそのプレッシャーの中心にいることを楽しみたいというひともいますので楽しみ方はひとそれぞれかと思います。
ちなみに僕は平成最後の夏にふさわしく先日カラオケでTUBEの「あー夏休み」を歌いました。
本日の巨匠に学ぶのコーナー
吾妻ひでお著/ひみつのひでお日記30Pより模写
いっしょうけんめい模写したつもりでもやはり線が硬い。
未熟者め。と自分をいさめる謙虚な平成最後の夏。
ひみつのひでお日記
ご覧いただいてありがとうございました。